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2007年06月18日

#14 ボート


正哉と杏奈は親しくなってから、

しばらく経つ。


二人の心の距離は日増しに縮まっていった…



だが、

未だに二人はお互いの家族の了承を
得るに至らず、

今も、

こうして人目を忍んで逢って
より親密になる一方で

どこか物足りなさを感じていた。


何度も繰り返していたが、
直にその関係が知られ、

お互いに自由に逢うのは

難しくなってきた。





正哉には、
親の計らいで許婚相手がいた。

実業家の跡取り息子で将来有望視され
それに懸命に応える。


杏奈は

華道に身を置く家系に生まれ、
幼い頃から英才教育を受けて育った。


華やかな芸術の世界と裏腹、
仕来りと規律を重んじる
ティーチングの文化体系そのもの。

自立するまで、
自由は許されるものではなく、
まして異性との交際に寛容とは
言えなかった。



すでに敷かれたレールに抗うことなく、
堅実に生きた歳月。


機能美ともいえる、
期待に応える自らの素質と素養。



けれど、ふとすれ違った人、
流れ通り過ぎる車窓の向こうの風景に、
沈みゆく空の色彩に、

心奪われ、見とれる時があるように…


物足りなさと、
決定的に何かが欠落していることを
ふと思い起こされる瞬間。



頑なに費やした時間の空しさと、
同時に切なく淡く激しい高揚が
とめどなく溢れて、爆ぜる。




出会い。




その瞬間に

すべてが終わり、そして始まる。




至福の代償に、


多くの何かを失う。




出会ってから、


それからはただひたすらだった。





それだけだった。




何にかまうことなんてない…



それが芽生えた、
他ならない自分の意思の自由と、
好んだ選択だと


信じていたから。




何を引き替えにしたって、

疑ったりしない。




これを、

運命めいたものと感じていたのが
一方的ではないなら、

二人の距離は急接近したって
おかしいことなんてない。



言葉を交わさなくても
想いが伝わる方法がある…

何も口にせずにまぶたを閉じる。



触れあうことが、
こんなにも優しくて…、やわらかくて…

こんなにも相手を愛おしく想える行為
だったなんて…





二人で約束して特別の日を過ごした。


少し遠出して、二人でボートに乗った。


これなら、

誰にも邪魔されずに二人きりで
時間を過ごせる…から。


いざ向かい合って、
お互いがずっとそのままだと気恥ずかしい。


会話も、ろくに続かない。


でも、心はずっと弾んでいた。


なんだかよくわからないけど
二人して笑ったり、黙ったり、
お互いのこと気にしたりして、


忙しい。



でもそれでよかった。


必要以上の言葉が要らなくていいと
わかったら、

とても過ごしやすく、
ちょっとした心の変化を

互いに気にしたり、
察したりするのは

あたたかい気持ちにも、
とても切ない気分にもなったり
してたから。


機械的に過ごし実績が
社会人としての価値の高さだと
思い込み続けて
必死に自立しようともがいていた頃には
気が付けなかった人間らしさを
感じられて、うれしくてたまらなかった。



色々な感情が複雑に絡み合って、



愛しくて、うれしくて、哀しくて、
切なくて、悔しくて、もどかしくて…



そんな風に、日々を思うだけで




ただ、

冷め止まぬ動悸にうなされて



眠れぬ夜を…







交わした約束、寄り添う時間


併せた掌が震えて、


充実と安息




満たされることのない
高まる想いと不安


幸せの絶頂と、依存




そんな日々は
いつまでも続けばいいと願っているのに
どんなに長くても気付いたときには
もう今が始まって、終わりを告げている…

それが次第に思い出となって…

充実した時間ほど、

驚くほど早く過ぎ去って

儚くて切ない…夢の泡沫



そして…



長くは続かなかった
穏やかな日々の終わりは



突然に訪れる。



はじめからわかっていた、
出会うはずのない二人が

互いの人生を無視してまで
選べるものではなかったと…



虚ろにさまよう瞳は焦点を
見失い視界が滲みぶれ、霞み

急激に力を失う体が

その場に崩れる。



もう逢うことは…



気の迷いだけで

約束された人生を
捨てるわけにはいかない…


熱に…奪われた
計算された人生のビジョンが
再び、思考を支配していく。




時を忘れて過ごした日々が、
まるで夢であるように


それに夢中になっていただなんて




子どもじみている…




熱く昂ぶっていた情念が
急に冷めていく、

それは自分でもおぞましいものだった。

吐き捨てられた心のカスは
先ほどまで自分自身の一部だったのかと


思うと、


無性に空しい気分が込み上げてくる。



もう別れることを覚悟した。



こんな、

人生を遮られるような選択は間違っていた。

もうここで

終わりを告げれば明日からまた、
期待に健気に応える日々に戻れるはずだ。




それらすべてを言葉にしようとして

…言葉を失い、すべてをのみ込んだ。



対面したときに、


何とも言えずに込み上げてくる
想いの奔流に…

目尻からくる、
カタチにならない
感情があふれて


止め処なく



二人で過ごした日々はなくならない。

強く深く胸の中ある…


このときに、別れを選ぶことで
心を失おうとしていたのか…




本当に決心が揺らいでいたのは…

別れを告げることにではなく、

愛を誓ったあの言葉から
逃げたことだった。



言葉なく、声を上げず、

哭いている。



何をいったい、
誤ってしまったのか



お互いを疑うことなく、
通じ合った日々は
どこに行ったのか。


もう言葉は要らない。



その肩を優しく抱いて。



約束された人生が何だって言うんだ!

もっと大切なことを
約束したんじゃないのか!



互いに深く強くきつく
抱きしめ合って泣いた。

どうでもよかったんだ、
なりふりを気にする余裕なんてないほど
この瞬間連続を真剣に生きた。




それからは


どんな妨げも気にしないで
二人の時間を大切にした。



でも…、

うまく現実と折り合いをつけるのが
難しかったから





激しい反対にあった。

だけどもう迷わない。



逢うことを禁じられても、
秘密で何とか逢うことにした。


後ろめたいものがあると
わかっている一方で、

抑圧されることへの反抗と
フラストレ−ションの反動


罪を冒しているようなスリル、
リスクのその先にある深い情念、



愛情はときに倫理の楔すら解き放つ。



「もう、私たちは離れない」

「二人一緒なら」


けれど、

一時しのぎでしかなかったから


問い詰められ、


もう誰も二人を許してくれないと
わかったから


誰を敵にまわしてでも、
二人だけの真実を必死に信じた。





「人を死ぬほど愛したことがあるんですか」



そう言い残して、二人は駆け出していた。



もう、戻るべき場所はここにはない。

けれど、これから見つければいい。



幼い愛であったかももしれない。

互いの人生が人に
迷惑をかけないように
責任を意識した決断では
なかったかもしれない。


その無責任さが誠実さとは
無縁の逃避行であったとしても

真剣に考え出した大切な選択だったから。





―駆け落ち





繋いだ手は、少しきつく
それでも快く引き合っていた。



恋愛が、バランスとタイミングと
とらえる考え方もあるようだけれど

正哉と杏奈は似ている、

二人はそんな風に互いの共通点を
探り合っていたが決定的に異なった
人間だということが、浮き彫りになった。

それが互いを遠ざける理由にも、
できるけれど


二人が選んだのは

補い合うこと、

支え合うこと…


結果かがどうあれ、
今の二人は一方的ではなく
確かに息が合っていた。


握り返すその手が湿って
ぬくもりを伝えることを

このときにこそ、心地いいと感じる。


確かめるように、ずっと。


二人だから
選び出すことができた選択と行動…


そこに自由があったのか




自由には責任が伴うと、
口々に大人はそれを、

ただあれば喜ばしいだけのものとは
言わずに険しく人生をいさめる。


少なくとも、安寧だけだとは
言えなくとも

努力を続ければ満たされる生活を
自ら手放し、

見通しのない未来への可能性に賭けた。



そこに選択の自由があった。


二人で考えて選んだのだから。



どんな道を歩こうとも、
この先がコレで安心なんてことは
なんだってどんな道を歩んだって
保障してくれない。


だったら、後悔しないように
真剣に考えて進めば

どんな道だって拓いていける。


なるようになる。


ずいぶん、
言葉が軽んじられそうだけど、
今を本心で進み、

生きる人なら勤めて奔走するから。


その言葉は、


なんとかなるように、
どんな苦難も乗り越えていく

という決意。



なんとかなるは、
なんとかしてみせると

心に刻んで。



口では不安を消すように
優しく、言うだけで。



必要以上の言葉は、
余計に今を考えすぎてしまうから


あえて要らない、から。



ここではない、どこかへ

踏み出すその先に


何が見えるのか、

そして何が待っているのか



ただ今は、軽く握り併せて、
ひざに置いた掌と共に

椅子にもたせ掛け、
肩で寄り添う体が

心地よく揺られている。


流れ行く車窓の向こうの風景が
とても懐かしく遠いものに感じた。


どこか疲れたように、
力なく脱力して身を任せていた。



「私たち…

 来るとこまで来てしまったね?」


「これからの二人ために必然だったんだ。

 悔いはないさ」



「これからどこに行こうか?」



「望むなら…どこまでも」




だるくもたれた、
お互いの体を支え合った。

併せた手は離れることはない。




ふと遠目に、

窓の外に見える、

湖が堕ちていく日の光を散らす
ように照らしながら

水面を鮮やかに染めていた。





それからしばらく経って、
二人は子宝を授かる。


生まれ育ったあの街を
離れるときにはもう、

杏奈の胎内には
静かに芽吹いた命の息吹あったのだ。


二人は過酷な日常に生きながら、
訪れた至福の時に、

二人の未来がどんなものであっても
目をそらさず、

立ち向かって、
幸せを育んでいくことを思った。



「私たち、親子になるんだね?」


「ああ、これが家族だよ」


「すごいね!私たち」



これからはもう親子、
三人で生きていく。

明るい未来を手探りで
手繰り寄せるように。




それでも…


天使のように、
無邪気な笑顔がとても儚いものだとは
考えもしなかったことだった。




過酷な日常は変わらない。

一人増えたことでより
一層厳しくなったことは明らかだ。



それでも守るべき存在を
背負った正哉の心には

闘志と生きがいとが
ない交ぜになってやる気が急激に上昇した。


共働きをしていた二人、

なんとか暮らして落ち着いてきたけれど
杏奈は子どもの世話に追われ、
少しずつ味わったことのない
ストレスが蓄積していくことになった。


正哉は今までの実績を使わない以上、
就職口を見つけるのは困難だったが
なんとか雇ってもらえるところを
探し当てていたのだが…




まさかの災難


不慮の事故


正哉は、生活費のため、
保険には極力加入しておらず
その事故によって、利き腕を負傷した。


入院とまではいかなかったが、
しばらくは通院を繰り返すことになった。
仕事はもちろん休むことになった。



少しも経たないうちに、



もう来なくていいよ。


と、あっさりと。


連絡を受け、
不本意ながらクビを宣告される。


仕事中のトラブルが災難だったのだ。


借金まで抱え、
生活はいよいよ苦しくなってきた。



何があっても、乗り越えていこうと
思っていた二人に訪れた危機だった。


「ごめんな。杏奈…」


「心配しないで。
 あなたは早くケガをよくして
 また元気になってくれれば
 それでいいんだから

 今は安静にしてていいんだよ」



それでも杏奈は、
気丈に正哉の女であることと
和人の母親であることを

曲げずに、この状況を耐え忍び、


正哉を励まし、和人をあやした。



失意と情けなさに沈む正哉に優しく、

杏奈はあの日以来、
行っていなかった湖に
行こうと話しかけた。



「またボートに乗ろうよ?」


「ボートか…本当に懐かしいね」



やる気が低迷してしまった正哉は
杏奈の心遣いに、まぶたを腫らした。



そしてあることも
同時に覚悟していた。


行こうと誘われ、
今の状況がどうこう言うより
単純に優しい言葉がうれしかった。


それなのに慰められた
自分が情けなかった。



自分が彼女に


なんとかなるさ


と、言って励ますべきじゃなかったのかと。




二人は、あの日から再び、
ボートにこんなカタチで
乗ることになるとは
思ってもみなかった。


いや、今は三人…



あの胸を弾ませて、
お互いの未来に少しの不安も
想像しなかった、

あの日々が異様に懐かしく感じていた。


あの幼さも若さも、
今となっては鮮やかな思い出に
成り果てて久しい。


真実と永遠が、
誠であると信じていた。


それが美しいと、潔白であると、

そして純粋であると。



「今日は私にオールをこがせてね」


「…うん」


和人を正哉が片手で抱き、
覆っている布を
首から下げて支えた。


杏奈は気の強い女性だとは感じて
いたけれど二人のときはとても和やかで
自分を優先した物腰の低い謙虚な態度で
支えてくれていた。

そして

普段は見せない愛らしい表情と態度を
見せてくれた。

それは自分だけが知る、

杏奈の美しい一面を
垣間見せてくれているようで
激しく男心をくすぐってくれていた。



今日は彼女自身の精神的な強さを
態度で実感ことになった。


オールのこぎかたは
稚拙でも、豪快だ。


でも自分を自然に労わってくれた。



愛するものとこうして、
向かい合って改めて見返す過去は
ずいぶんと色濃く胸を切なくさせる。


そして今を

余計に皮肉めいたものにさせてならない。


会話は前のときと同じように、
弾んではいなかった。




「結構、こぐの上手でしょ?

 よいしょ、よいしょ」



「…そうだな」



冗談でも、本人が真剣なときは見守るのがいい。

それにしても

彼女はたくましくなったものだと感じた。




外出したとき、
和人は行ったことないところに行くと
泣き始めることが多かったが
今日はやけに静かだ。



結構なところまで来て時に、
杏奈はこぐのをやめて、



「抱くの疲れたでしょ?

 和人交換しよ」



息子をゆっくり、抱き渡した。



彼女は優しく息子の額を撫でて、
愛しそうな表情で、

少しうつむき加減に
もの静かにボートに身を委ねる。



……………




和人を抱いたとき、
なんだか全然この子は

私たちのことを
わかっていないんだろうなと感じた。


無垢な表情は、
実に無責任で深刻さとは
無縁な穏やかさだから。

先ほどまでで火照った体温が
少し肌寒かった気温に対して
温度差を和らけた。

この子にそれが伝ってか、
無邪気に笑い声を発してくる。


私は今まで、彼を支えてきたけど、
この子を育てるだけで手一杯で、
彼が私たちを守るために深刻な重荷に
感じてしまっているとするなら、


悲しい。


ただ何も、
知らずに笑っているだけの
この子に何がわかるの。

この子は私と彼の愛情を受けて育つ天使

でも、ごめんね。

これから先、
もっと苦しくなるかもしれない。


今でさえ、
私たちの対する世間の風当たりは
厳しいものだから。


彼とはこうして、
昔みたいに一緒に手を取り合って
幸せに暮らして生きたい。

今よりもっと安心して暮らせれば
それがいいのだけれどそれだけじゃ、
今は…やっていけないの。

せめて私が、彼を支え続けないと。

彼を本気で愛しているのは
私だけだから…


でも私は何も彼の助けに
なれてないのかもしれないの。

ここへ来れば何か取り戻せるかもしれないと
思ったのだけれど…


もう、どうしていいのか…



この子に手をかけすぎなのかな…
この子は私たちの愛のカタチなの。


だから


この子にはなんの責任も、
罪もないのに。


私は、なんでこんなことを
考えてしまうのかな。


この子にもう少しだけ、
手をかけずにいられたら、
私が働きに出られる…


この子のせいじゃないのに。

こんな私は嫌なのに。

何かのせいにするのは嫌なのに。


でも…








「…杏奈?」


今まで見せなかった
少し思いつめたような表情を
彼女がしているので
どうしても気になってしまう。


彼女は彼女なりに、
考えて自分を支えてくれてはいたけれど
和人を育てることに追われて、
ストレスがたまりすぎていたのかもしれない。

自分が今落ち込んでいるだけじゃなくて、
彼女もずっと葛藤し続けていたんだ。



「…ごめんね?」


「…え?」


「私、あなたの役に立てなくて」


「そんなこと、思ったことないよ」


「あなたは、がんばり屋さんで優しい人だから」


「それを言ったら、杏奈だってそうさ。

 杏奈は気が強いけど、
 ホントに色んなことに
 気を配ってくれるから

 僕は、それを優しさだと思うよ?
 それに、ずいぶん助けられていることか」


「…そんなことないのに」


「ホントにひかえめなんだね、君は」



確かにはじめは気が強くてガードが固かった。

歴史をとても感じる女性。

かめばかむほど味が増す関係なんて、
理想に過ぎなくても、

ただ近付くにつれて
感じられるものがあった。

自分には何もないんじゃないか…
という不安さえ忘れさせて
勇気付けられて。


規律と常識の気品を守ることの難しさ、
またそこに身をおいた人間が
許せない規則を破るという行為

それでも

彼女の内面は、
絶対的に他者に決められた
頑丈な城壁のもっと向こうに
見える優しさを灯していた。


それを垣間見せた表情を
見てしまってからは、

もう後ずさることはしなかった。


そうしたら、彼女は惜しげもなく
それ以上に応えてくれた。


それだけだったのに。


期待されると応える人間気質が
こんなところで
出てしまう自分たち。


ゆらゆらとボートが風に押されて、
水面に僅かな波がたっていく。



「少し風が強くなってきたみたい」


「杏奈」


伸ばした手に、二人は手を取り合う。
お互いに目の隅が潤っていた。



不意にボートが傾いた。



大きな風か吹いたのだ。



「…あッ」


「正哉くん!」



私は咄嗟に彼のふらつく体を抱きとめた。


少しの間、

二人はそうやって心音が
おさまるのを待っていた…



「大丈夫?」


「…うん」


「あぁ、驚いた」



何かが…
大切な何かを見失ってしまった
ような錯覚が…

大切な人を抱きとめて
この腕に、とても近くに、
感じているというのに…


あれ…?




「!!!」


「和人は?」


「和人!どこ!?」



オカシイ



ボートの上にはいない


でも、


水に入ったときの音は聞こえなかった。
それどころか…


水面は何事もなかったかのように、
波紋すらたっていない。



「あの子、湖に落ちて!?」


杏奈は今にも入水しそうな勢いである。



「待って」



今、杏奈が湖に入ってもどこに
和人がわからないままでは
死に急ぐようなものだ。


もし、溺れたりしたら正哉には
救う自信がない。

この片手では…


こんなときに展開する
冷静な思考は親としての
自分を苦しめていた。

いくら水に入ったからといって
いきなり沈むものか…



それに一番オカシカッタのが
和人を包んでいた布と子ども服が
そのまま残されていることだ。



「嘘よ」


「なんで…、

 コレだけ残されているんだろ」



「わかん、ない…」




………




これじゃまるで…






愛し子が残した、
手掛かりの断片を手にしたまま
二人はがっくりボートの上に佇んだ。


そのままボートはゆっくりと漂って。



こんなときに静けさは
むなしさをあおりすぎる。



息子が何処かに消失した。



ボート乗り場に戻ったとき、
はじめから二人しかいなったと
聞くことになって青ざめた。

もう一人、子どもを抱えていたと、
受付の人に聞いても

いや、二人しかいなったと。


「こんなの嘘よ」


「杏奈」


「あの子はどこなの…
 こ、これは、そうだ、

 夢よ、夢なんだわ…」


「杏奈!」


「…あぅぅ…、ぁなたは、平気なの

 こんなの、ィヤよォーーー」


「杏奈、落ち着いて」


「あの子は、あの子はここに居たのよ
 確かに、この手で抱いていたのよ…」


「ああ、わかってるよ」


今度は自分が彼女を抱き寄せ、
そのおぼつかない体を支えて
優しく、撫でて気持ちを
なだめようとした。


「正哉くん、ッ…」


彼女は首下に顔を埋めて、
静かに気持ちを鎮めた。



息子は確かに自分たちの前に居た。
触れる実感もあった。

あの子とのリアルな思い出も憶えている。



だが、この事実はなんだ?

自分たちだけに見えていた息子…


これでは、

想像妊娠と言わたってオカシクナイ


でも残っていた布からわざわざ服を脱いで、
湖に入ったというのか
それこそ、疑わしい。


和人は、どこに?


「あのとき、私が、手を…」


「どんな理由があっても
 杏奈のせいじゃないよ」


「いいえ、あのとき私が、
 あの子さえ居なければ…と

 少しでも心のどこかで
 考えてしまったから…」



「それで、それだけで

 和人が消えてしまったとは思えない」


「でも…」



「もしかしたら、本当に最初からあの子は
 生まれていなかったのかも」


「そんなことって…」


貧乏だったので証拠になるような写真も
残していなかった。

籍も入れずに目まぐるしい毎日だったから
それ以外のことも…


「私たちこれから、あの子なしで」


「なんだか拍子抜けで、

 なんか心に穴が開いた
 ような感覚だけど、

 それでも!」




「それでも?」





「僕は、迷っていた心が
 すっきりした気がするよ」



「そう、なの?」



「和人がどうなったのかは
 わからず終いだけどね。

 こんなこと思ってしまう
 自分を許せなかったら

 ハタいてくれていい」


「…そんなことしないわよ
 そんなことしたって

 あの子は戻ってこないもの…

 私が…あの子のことを
 手放してしまったのと同じだから

 自分自身が赦せないの…」


「はじめから和人はここに居る。
 
 こんなにも鮮やかにあの子のことを
 リアルに感じさせてくれた…

 これが現実なのか、夢幻だったのか

 わからないけれどあの子は恵まれて
 生まれてきた…

 だから、あんなにも、愛おしかった。
 今もそれは変わらない…

 でも今を生きる人は皆、変わっていく。

 そうやって、何度でも一から出直して
 失敗しても、それをバネにして…

 失ったいく悲しさ鎖を、寂しさを
 乗り越えて力強く生きていく…

 本当に正しいことなんて
 わからないまま飛び出して、
 それでも、未来を信じていた。

 あの子の未来がこの胸の中で
 生き続けることなら、
 それを見守ってやりたい。

 あの子はここで生き続ける。

 忘れないから、
 あの子はずっと共に、ここにある。


 今までなんとか精一杯やってきた
 また二人でなんとか…

 苦労は絶えないだろうけど
 がんばっていこうよ?」

正哉は杏奈の掌を自らの胸に当てさせ、
自らに言い聞かせるように励ました。

頬を伝って僅かに煌く一筋の軌跡を描いた。

こらえていた感情は静かに
潮流となって涙腺より出でて
すぼめられたまぶたを越え、
放たれていく…



「…ンできるかなぁ?」


いつになく、弱気と不安な杏奈は正哉を
今、頼りにするしかなかった。



「大丈夫さ、なんとかとなる、

 なんとかしてみせるさ。


 二人一緒ならね」



「…ごめんね?和人」


「?}


「私ね、

 和人が居なくなって

 ちょっとほっとしてるのかも。
 
 だって、正哉くんがまた、
 私の手を引っ張ってくれるから。

 それがうれしくて。

 今、悲しくて悔しくてどうしようもなくて

 それなのに、どうしてだろ…」


哀しみとも、喜びとも、とらえられない様な、
複雑な表情で零れる涙をその手で拭う。


「…ボートで真っ先に、
 僕を抱きとめてくれたろ?

 あれ君が僕をよく想ってくれてるの、

 とてもよく感じたよ」


正哉は杏奈の髪に触れ、頭を撫でた後、
濡れた頬を優しく拭った。


杏奈の表情に穏やかさが
少しずつ取り戻されていく。



「ほら、この手だって杏奈が

 心配してくれたから

 もう、こんなに元気だって」


利き腕を振ってみせる。



「あれ…ッ、すぅーーッ!イテテ」



振った後で少し気張ったのを
すぐに自白してしまうことになった。


「…あ、もうッ、ダイジョーブ?」


いつもの彼女らしさがここに。


けれど、
いつも同じ自分らしさを
前面に出してこれが自分ですって
保ち続けることって
そんなに大切なんだろうか?


それよりも、
気持ちの変化をその時々で
感じ取っていくことが

大切なことじゃないかと
そう思えてならないんだ。


よく恋愛を波のように例えることがあって、
その気持ちの振幅が一時的に見ると
上がっているときは、幸せだけど、

下がっているときは
そうじゃないみたいな…


でも、き
っかけと思いやりがあれば、
いくらでも取り戻せるって、
そう思うこともできるんじゃないか、


そして

今まで以上に互いを想うことも…



もちろんそれが、
キレイゴトでしかなくても、

信じることでそれが

カタチになっていくなら、

そこに幸せが見えていい。





もし、

私たちの気持ちが沈んだ
あのときが倦怠期で、
幸せの幻がカタチを失って、

魔法が解けてしまったんだとしても、

再び至福のときを願って、
今を懸命に走り出すことがあっていい。



誰かの、大切な人の手を引いて


一緒に歩む未来があっていい。




どんな在り方であったとしても…


そこに愛があるなら、

信じる未来に向き合っていきたいと

切に願う。




「またここから…

 一緒にがんばろ?

 がんばっていこ?」



どんな失敗を繰り返したとしても、
もう一度、そして何度でも。



大切な何かを失くしても、

未だ見ていない、喜びも哀しみも、

複雑な感情が、その先があるから


それらすべてが
人生であると思える日が
来るとするなら

その日までどんな道のりだって
越えていこう。


なんとかなるよ、

なんとかするよ

なんとかしてみせるから…


どうか…

その手をつないでいてほしい。


ただ、

添えるだけでもいいから。

たった一人歩む人生でも
ただ独りで進んでいく道じゃ
ないのだから…


今は、それでいい

それだけで、いい


そう思う。




手をつなぐ、大切な人と共に。







……………



アレから、3年経って、

正哉と杏奈は、
また多くのことを経験して
二人の間の起きた波は数知れず、
荒波だったかもしれない。


端から見れば些細なことも、
二人には繊細な心のやりとりで
あったかもしれない。


そして、感情の変化も、状況の変化も
色々と心動かして互いを養いあった
日々を越えて。


それらは

思いやりや心遣いによって
支えられていたかもしれない。




またあの場所へ―



二人の手には
小さな手が握られていた。


二人は前より少し、大人びていて


もう一人を見守る視線
どこまでもやさしく、あたたかい


三人はゆっくりと歩み出す。



そして、ゆっくりとこぎ出した。


穏やかな心は、
湖の周囲が自然で囲まれ、
湖と陽光とが織り成す風景が
一層際立って、


時間によって変化する
美しい色彩を見せてくれることに
気付かせてくれる。



今まで見ていた、
景色とはまた違った
色合いを静かに伝えてきた。



「ここは変わらないね。

 でも、前とは全然違うんだね」


「僕らの関係に似ているかもね」


「そうかな?

 でも、

 私たちにもこんなにも
 穏やかな時間と
 繊細な美しさに触れて感動できる心が
 あったのだと、思えれば

 いい気分かもしれない」


「カタチや色が変わっても
 同じに綺麗だと思えることはあるさ。

 今までそれに気が付けなかった
 だけかもしれないね。

 こんなにも目の前にあったのに、
 自分の内面ばかり
 気にしてしまって」


二人は飲み込むように大きくうなずいて、


「ここの景色は



 …本当に綺麗」





水面に映し出されらた周囲の景色と
光の反射のきらめきは

心踊るほどに目を見張るものがあった。



瞬く間に過ぎ去った日々を思う二人は、
ようやくこうして目に映る自然の景色を
見て心動かし、自身と向き合うことで

二人の関係と心の在り方は

微笑ましい静けさを得る程の
深まりにまで至れたようだ。



ふいに大きな風がボートを押して、

乗っている彼らは、

条件反射的に手を取り合って振動に備えた。



二人は顔を見合わせた。
少しあのときよりもお互いに成長した顔付き…
互いに安否を気遣いして、無意識に見つめ合い、
そっと浮かべた表情を快く爽やかなものだった。

それだけで二人の息遣いが
通っているようだった。


ほっとした顔で、娘の頭を撫でやった。



急に…


少女が二人の顔を見上げて


目を合わせ、








「今度は、手を離さないでね?」



と言った■











posted by EVILITH at 17:18| メインコンテンツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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